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UNIXとインターネットとの出会い(私がLinux/OSS業界にいる必然性)

Linux/OSS業界になぜ、私がいるのか。その必然性について私の社会人としての経歴を踏まえてお話したいと思います。

お久しぶりです。しばらくの間、お休みをしておりましたが、社長ブロクを再開させて頂きます。

前回は、「烏龍の旅」ということで、中国や韓国などの様々な出張先での出来事などを中心に書いておりました。
今回は、「Linuxの旅」ということで、Linux業界に関連する様々なことを書いていきたいと思います。
さて、最初の何回に分けて、私のLinuxとの関わり合いについて昔話をさせて頂きます。
第1回目は、「私がこの業界にいる必然性」です。

  1. UNIXとの出会い
    私はバブルと呼ばれた1989年(平成元年)に鈴鹿高専を卒業して、富士通株式会社に入社をしました。3ヶ月間のSE新人教育を経て、配属されたのは、大阪の関西システムラボラトリにあった西日本教育部という社外や社内SEに講習会を実施する部署でした。
    当時富士通は、サンマイクロシステムのワークステーションのOEMを1988年8月(私が入社する前年)に始めており、SunのEWSの教育というのをまさしく始めていたところでした。西日本教育部には、同期は、子会社からの出向者を含め、男性4名、女性6名の10人おりました。
    (さずがバブル世代!)

    その中で、私は、今後の人生を決めることになる、SunのEWS担当になったわけです。何年後かに先輩から聞いたのは、配属される前は、私がオフコン(富士通Kシリーズ)の担当で、同期の男性がSunの担当としていたそうです。配属されてきてから、このアサイメントを変えたそうです。
    (人生何がどうなるやら分からないものです)

  2. UNIXの素晴らしさ
    当時は、メインフレーム(富士通Mシリーズ)やオフコン(富士通Kシリーズ)が花形でした。SunのEWSは、1988年8月に始まったばかりで、その先どうなるかはまだ分からない状況で富士通の中では亜流でした。しかし、逆に良いこともありました。誰も重鎮と呼べるような先輩もおらず、自分が勉強すれば部内では一番になれること。そして、WSですから、いつでも好きなだけマシンを専有することができたのです。
    (メインフレームやオフコンは基本的には
    コンピュータセンターにあり、社内で共有で使っています)

    OSのインストールが出来たり、フリーソフトウェア、パブリックドメインソフトウェアもソースコードをダウンロードして、自由に自分でコンパイルしたり、ソースコードをいじったりすることができました。おもちゃを与えられた子供のように毎日色々なことをWSの前に座ってやっていました。
    (もちろん、Sunの講習会をするための勉強や準備もやっていましたが)

    その当時のSunのEWSが写っている写真です。先輩女性社員の方が寿退社されるときに後輩たちと
    とった写真です。(上段左から二人目が私です。91年とありますので、私が23歳の時ですね。若い!)



  3. インターネットの素晴らしさ
    富士通社内の研究所や開発部の人たちは、すでに米国では始まっていたインターネットの技術を使い情報共有や電子メールを利用していました。
    (もちろんまだWWWはありません)

    当時は、UUCPというプロトコルを使い、モデムで拠点間を電話回線で不定期的につなぎ、電子メールをバケツリレーのように配信するという仕組みでした。私も西日本教育部のEWSをこの電子メールの中に繋げけたくて、部門申請など色々手続きをして、モデムを買ってもらい(当時2400bpsのモデムは数万円した)、ATコマンドを駆使してスクリプトを作成して、なんとか富士通社内のドメインと電子メールアドレスを取得しました。
    (はじめて電子メールアドレスを受け取った時の感動は忘れません)

    当時は、メーリングリストが情報交換のメインでした。私より優秀な研究所や事業部にいる開発者の方々の情報を見ることはとても有益でしたし、分からないことを聞いたりして、会ったこともない人たちと情報を共有することや問題を解決することがいかに素晴らしいことかを体験したのです。物理的な距離が関係のない世界にすごく可能性を覚えたのです。

三つ子の魂100までとは言いますが、私は社会人の最初の1年間で今のLinuxやオープンソースにつながる体験をして、「これは素晴らしい」と体で覚えてしまったわけです。
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