第五ステップ:大正解!!
再度、調査を島根県安来市の教育委員会にお願いをしたところ、以下のような回答が届き、確かに現在のオフィスの敷地が広瀬藩の下屋敷であったということが分かりました。
「新宿区が保管されている、江戸時代の図面と現代の図面です。2つを重ねていただくと、現地で間違いないことが確認できるとのことです。」
というこで、このご連絡を頂いたのが、開所式の前日の夜だったのですが、開所式間に合ってよかったです。
ただ、メールに添付されていたFAX受信された地図の解像度が低く、場所を確認するのがやっとでした。
第六ステップ:検証作業開始(新宿歴史博物館)
とまあ、なんとか開所式までに確認がとれ、開所式を終わり、東京に戻ってきてたわけですが、やはり、メール添付されていた地図の実物を見てみたい。ということで、安来市の方が連絡を取られた「新宿区」を聞いて見ました。
回答としては、「新宿歴史博物館」に問い合わせをしたとのことでしたので、ネットで調べてみると曙橋近くにあることが分かりました。さらにメールで問い合わせをしてみると、安来市の方が送ってくれた地図は、
『新宿文化絵図』(新宿区地域文化部国際課発行)特別付録『江戸・明治・現代 重ね地図』(新宿・大久保編)
というものであることが分かりました。ということで、休みの日に早速、新宿歴史博物館に赴き、実物を見に行ってきました。
係員の方に、書籍名と閲覧希望を伝えると、閲覧室に通して頂き、重ね地図を倉庫から出して頂きました。
この資料は、確かに見やすいものになっていて、現代地図と江戸時代の地図を重ねてみることができ、現在の
オフィス敷地の場所に「出雲広瀬藩(島根) 松平佐渡守直諒 三万石」と書かれており、敷地が5,633坪(=18,600m2)
もあることが分かりました。三万石といえでも、やはり松平家ということで、2つ目の下屋敷でもこの大きさです。
(残念ながら、現時点では、この地図のコピーを掲載する許可が取れていないので、地図をここに掲載できません)
この重ね地図は、現代の地図との縮尺や方位も正確に作れているようで、江戸時代の地図は、
「安政3年(1856年)期の江戸時代地図を実測復元」と書かれています。
前回、私が掲載した国立国会図書館に所蔵されている地図は、「嘉永七寅年」と書かれていますので、1854年になり、ほぼ同時期の地図であることが分かります。ちなみに1853年にペリーが浦賀に着ていますので、この時代は、既に幕末の動乱が始まっている時期なのかもしれません。
この嘉永7年と安政3年の地図を比較して、お寺の位置を検証してみると、やはり私が最初に
示した位置が今のオフィス敷地であることも分かりました。
またさらに、新宿歴史博物館の職員の方は、以下の書籍も紹介してくれました。
・新修 新宿区町名誌 地名の由来と変遷
・地図で見る新宿の移り変わり 淀橋・大久保編(昭和59年発行 新宿区教育委員会)
・地図でみる新宿の移り変わり(昭和54年 新宿教育委員会)
ということで、このあたりの資料は、教育委員会の方々が編集するもんんだということもよく分かりました。
おまけ
さらに、これらの資料を見て分かったことは、
- 新宿6丁目〜7丁目あたりは、鷹狩をする場所であったので、「鷹場」と呼ばれており、明治になってから
将軍が鷹狩をすることもなくなったので、「高場」と漢字を変えたこと。
- 広瀬藩下屋敷は、明治時代は、前田邸であり、広瀬藩下屋敷(江戸時代)⇒前田邸(明治から戦前)⇒日本ゴルフガーデン⇒イーストサイドスクエア という流れであったこと。
- 前田邸は、現存しているのは、有名な洋館ですが、ここにも屋敷をもっていたこと。資料では、少なくとも明治43年〜昭和15年までは、前田邸がここにあったことが分かっています。この前田邸は、資料を見ると、やはり加賀前田家の屋敷だったようです。
- 地名は、豊島郡東大久保村と呼ばれていたこと。明治になり、大字東大久保字高場となっていたこと。
- オフィスの裏手には、大久保富士と呼ばれる人工の山が築られていたこと。(今は、崩されてありません)
- オフィスの裏手にあり、新宿文化センター前のくねくねした道は、もともと流経路で水が流れており、その水は、尾張中納言の屋敷にあった庭園まで流れたいたこと。
などなど、色々なことが分かったのでした。
(次回:古地図にある神社仏閣を巡ってみました。に続く)